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テーマ: カトリーヌ・ド・メディシス Catherine de Medicis
 updated on 13 Nov./26 Nov.2005

 

ややこしい情勢、家系であるが、彼女は歴史上でもかなりのウェートをしめ、
16世紀の歴史・建物・文化の解説では、かなりよく名前がでてきます。

複数の王位継承者(夫、3人の息子)の時代に、政治にかかわり、
宗教戦争という内乱をこえ、13代つづいたヴァロア朝の終末をむかえる興味深い時期です。

彼女をキーに 本など読んでみると、フランスの歴史の一時代が 身近になるかもしれません。

旅行のとき、この16世紀 (日本では室町時代、安土桃山時代) の背景をしっておくと、
絵をみたり、由緒を見聞きするときに、なお面白くなります。

よかったら、映画や本などからはいってみてください。



 
1519〜1589
カタリーナ・デ・メディチ。イタリアから嫁いだフランス王妃。ヴァロア朝10代・アンリ2世妃。
息子たちをおさえて30年間摂政や皇太后として権力闘争にあけくれた。
 

◆イタリアのメディチ家出身。ウルビーノ公爵ロレンツォ・デ・メディチの息女。大ロレンツォのひ孫にあたる。母は フランス王フランソワ1世の従姉妹にあたる。まぁ押しも押されぬ富豪の直系、本家のお嬢様ですな。早くに父母をなくした。一時期孤児院で育ったという説もある。
 

◆1533年 フィレンツェにて養育され、政略結婚により、14歳で フランスの第二王子アンリ・ド・ヴァロア(当時オルレアン公)に嫁いで、フランスにやってきた。

どうも、そもそもは ちゃんと「第一王子の嫁」になるはずだったらしいが、いくら富豪とはいえ所詮は商人だろ、ということでランク下にみられたらしく、釣り合いがとれんとか なんとか反対が起こり、第二王子の嫁で決着がついたらしい。

このお輿入れの絵は ”ご実家”フィレンツェのヴェッキオ宮にあるそうだ。

 

◆1547年、第一王子が毒殺され、夫がアンリ2世として即位。王妃となり、子供にも恵まれる。
 
が、夫は、絶世の美女とうたわれたディアーヌ・ド・ポワチエという年上の愛人を、なんと数十年も!もちつづけた・・・・(ちなみにディアーヌは60になっても30代にみえたという・・・・)
 
カトリーヌ自身、メディチ家遺伝のぼってりした鼻をもち、美しい容姿とは言いがたかったらしく、相当確執があったようだ。夫がなくなると、シュノンソー城をディアーヌから奪い取って、たったと追い出している。
 

1559年 夫アンリ2世がトゥールネル宮殿での槍試合で致命傷をうけ、亡くなる。

若き3人の継嗣たちを支えるという形で、摂政や皇太后となり、3人の息子の政権の影で、権力を振るった。結果、宗教戦争で内乱が続くご時勢に、30年も暗躍した、淀君も真っ青な女傑。「サン・バルテレミーの虐殺」(1572)の影の首謀者ともいわれ、欧州の歴史上、もっとも名高い悪女と評されることもある。

 
◆長男 フランソワ2世
15歳で即位、1年ほどで死去。病弱だったらしい。

嫁さんは、メアリー(のちのスコットランド女王)。在位1年でフランソワ2世が死亡し、メアリー嫁は子供がいなかったためスコットランドに帰国し、激動の人生がはじまった。ちなみにこの嫁、フランス王宮から田舎にもどったので、カルチャーショックがすごかったらしい。
 

◆次男シャルル9世:10歳で即位、24歳で死去
 

◆三男アンリ3世:13歳で即位、けっこうがんばってオカンを抑えたけれど、カトリーヌが隠居先で亡くなった約半年後に、自分も狂信者に暗殺され、奇しくもカトリーヌの死とほぼ同時期に ヴァロア王朝が終わりをむかえることになった。
 

◆三女は、頭脳明晰な美女として有名な、マルグリット・ド・ヴァロア Marguerite de Valois (アンリ4世妃)。なお、このマルグリットを(恋人がいたのに) 新教徒とノートルダム寺院で結婚させ、その宴をエサにパリに集まったユグノーを虐殺した(1572)わけだから、すごいオカンである。
 
ちなみにマルグリットはその後 アンリ・ド・ブルボン(のちのブルボン王朝初代・アンリ4世)と結婚したが、彼は愛人も多く、不仲で別居がつづき、1599年に結婚無効の判断をくだされている。

(で、離婚した アンリ4世は そのあと、メディチ家出身のマリー・ド・メディシスと再婚し、その子が ブルボン王朝をついでいくので、ここでもまた
カトリーヌの血をひく王位継承者は、残せなかった。しかしマリーもやはりメディチ家出身であった。この後妻さんも摂政としてがんばった人で、お輿入れの絵は パリのルーヴルにある。)
 

◆三男 アンリ3世即位ののち、カトリーヌの勢力は弱まり、摂生を辞し、ブロワ城に隠居。1589年そこで没す。(参考・豊臣秀吉の全国統一が1590年)

その数ヵ月後 三男も暗殺され、くしくもカトリーヌの没年と同じ年に、ヴァロア朝は終焉をむかえた。
 

◆時の政治権力争いを走りぬけた女性。占いや薬品等に大変関心があり、ノストラダムスを召抱えていたそう。

ちなみに、彼女がフランスにきたことで、色々なイタリアの文化が流入したといわれる。
建築様式、お菓子のマカロン、フォークやナイフなどのカトラリー、傘、氷室、アイスクリームなど) また、くだんのサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局もカトリーヌ御用達で、お輿入れに香水の処方などを持参したそうだ。

 


関連映画 (ただし史実と食い違う点はあります:注)
 
『王妃マルゴ LA REINE MARGOT』(1995) (原作はアレクサンドル・デュマ)
 


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パリ左岸6区 リュクサンブール公園 Le jardin du Luxembourg 
カトリーヌが イタリア風に建てさせた庭園と別荘。

建物は、現在は Senat 上院議場として利用。(内部見学は予約や特定展覧会のとき) 華麗に建っています。こんな公園ほしい。


 
 
パリ1区 サンジェルマン・ロクセロワ教会 Eglise Saint-Germain-l'Auxerrois
詳細: 聖バルテルミーの日(1572年8月24日)、新旧宗教対立が過熱し、この教会の鐘の合図でプロテスタント信奉者の大虐殺が始まった、とされる。カトリーヌ・ド・メディシス(アンリ2世の妻、シャルル9世の母)のたくらみとされる、実に、パリで3〜4千人、フランス全土でも10数万人が命を奪われた、フランス史上最大の大虐殺といわれる大事件

ここの鐘が深い縁をもつと見知って鐘の音に耳を傾けるとなんともいえないこころもちがする。ちなみにヨハネ・パウロ2世は フランス訪問中、1997年8月24日に特別ミサを行った。
 


Photo by CALYASU

 
パリ (現在は無い)チュイルリー宮殿  チュイルリー公園  ルーヴル
カトリーヌが、夫がなくなったトゥールネル(トゥルネル)宮(詳しくはその前の広場)のを嫌い、(結果的にぶっ壊された) そのすぐ近くに、チュイルリー宮殿と、当時 イタリア式のチュイルリー庭園の建設を命じた(結果的には未完)
 
その後、チュイルリー宮殿は ナポレオンなどが手をいれ、ルーヴルとくっついたりもしたが、パリ・コミューンで焼失。

公園はその後、ル・ノートルに手をいれられ、フランス式庭園として整備された。いまのチュイルリー庭園の原型になっているそうだ。
 

Photo by furafura tomorin

 
 
 
パリ3区 ヴォージュ広場
で、 カトリーヌが、そのトゥールネル宮殿をぶっつぶしたあと、跡地に広場をつくることを言い出した。その後用地整備したりして、実際の造営は1605年アンリ4世から。

36の館に囲まれ、パリ最古の広場、として有名。


 
 
 
サントル・ヴァル・ド・ロワール地方  シュノンソー城 Chenonceau 
詳細: 川の上にたつ、大変優美で女性的な城。代々女性城主がひきついだので、6人の奥方の城、として知られる。l

アンリ2世が ディアーヌ・ド・ポワチエに譲ったが、王の死後、正妻であったカトリーヌが奪ったとされる。橋の上に2層造営したのはカトリーヌの時代だとか。名のついた庭園もある。


Photo by etst et nino

 
 
 
 
サントル・ヴァル・ド・ロワール地方  Chateau de Blois ブロワ城 
三男の即位後、勢力がおとろえて、ここに隠居し、晩年をすごした。1589年ここで没した。

 
 
 
 
 
 
サン・ドニ Saint Denis サン・ドニ大聖堂
詳細: カトリーヌの墓碑がある。

Photo by bianca

 
 
  

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